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シューシュタルの歴史的水利施設とは、2009年に登録された世界遺産。イラン南西部フーゼスターン州に
位置する。紀元前5世紀に、ダリウス1世の時代に創建された。塔、ダム、橋などで構成され、カールーン川の
ギャルギャル運河とシャテート運河の二つの主要な運河を含み、ギャルギャル運河は製粉場に通じるトンネルを
経由して現在もシューシュタル市に水を供給している。古代イラン人の水資源の有効利用に関する卓越した技術
力を示していることなどが評価されて、世界遺産に登録された。 (コトバンクより) |
途中の町シューシュタルではアケメネス朝の時代に始まり、ササン朝の時代に今の形ができた水利施設を
見ました。カナート(地下水路)から滝のように多分融雪季のため多量の茶色に濁った水が吹き出して落ちて
来ます。見たことのない雰囲気です。中程にある建物はイランイラク戦争(1980〜1988 イラン人の
死者130万人という)で壊されてそのままになっていました。ここは見応えがありました。 |
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チョガ・ザンビールとは、古代エラム人が現在のイラン・フーゼスターン州に作った複合遺跡である。
メソポタミア地方では数少ないジッグラトが存在する。デスフールのおよそ25km西、スーサの45km
南方に位置する。1979年に、ユネスコの世界遺産に登録された。 (コトバンクより) |
ジッグラトとは、古代メソポタミア、エラムの都市の神殿にある山形の聖堂。高い峰を意味する。
階段状のピラミッドが多く、段庭のあるものと、頂上まで螺旋状の階段の続いているものとがある。
これはカルデア、バビロニア、アッシリアを通じて存在し、現在ウル、アカル・クフをはじめ三十数ヵ所
のジッグラトが発見されている。『創世記』11章の「バベルの塔」はバビロンにあったジッグラトを描い
たもの。 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 より) |
その後、チョガザンビルの見学。これは紀元前1200年のメディア人のエラム王朝の城砦の遺跡で
保存状態が良く、世界遺産とされている。子供の足跡が残ったレンガがありました。
暑いと脅されていましたが、さほどではありませんでした。 |
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シューシュ遺跡は、イラン南西部、ジズフルの南東にある古代オリエントの遺跡。先史時代から
メソポタミア文明との関係が深く、彩文土器(彩陶)を持つ先史文明は、メソポタミアのウバイド期
(ウバイド文化)、ジャムダッド・ナスル並行期に相当する。エラムの首都、アケメネス朝ペルシャの
首都として栄えたが、モンゴルの侵入後廃都となった。19世紀末以降の発掘により、ハンムラビ法典
やナラムシン王戦勝碑などの遺物やアケメネス朝のダイオレス1世の宮殿跡が発見された。1988年
世界文化遺産に登録。 (百科事典マイペディア より) |
ハンムラビ法典とは、バビロンの王ハンムラビが発布した紀元前18世紀中頃楔形(くさびがた)
文字による法典。シュメールの慣習法を集大成・成文化したもの。「目には目を。歯には歯を」の
同害同復法で知られる。約280項から成り、後のヒッタイト、アッシリア、ヘブライの各法典などの
規範とされた。1901年スーサ(シューシュ)で発見された石碑は、現在ルーブル美術館蔵。
(精選版 日本国語辞典 より) |
シューシュ遺跡はダレイオス1世の冬の宮殿の跡地であり、イスラム化の折にアラビア人に徹底的に
破壊され、満足な柱1本彫刻の1体も残っていません。それでも一部残った柱の太さから往時の素晴らし
さを偲ぶことができました。 |
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帰路にイラン第二という石油の掘削会社の近くを通りました。近くまで行って欲しいと頼んだ
つもりでしたが、そのまま街道を走るだけで良く見られませんでした。 |
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夕食は、昨日よりは開店している店が多い町を散歩してから昨日とは別の店でペルシャ湾で
漁れるシュリデの唐揚げ料理。例によってこれをタマネギなどと一緒にナンというパンで包ん
で食べました。 |
今回の旅行で散歩はいつもガイドさん付きです。殆ど自由に歩かせてもらえません。「この町でどんな危ない
ことがあるのですか?」と質問したら。アラビア人とイラン人の集団でのけんか、麻薬に係わるトラブル、
いさかい等だと答えが来ました。また今日も外国人の姿を見かけることがありませんでした。 |
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